村上春樹風アーセナル③ 〜移籍編〜
移籍編
年齢
ロシツキーは目の前のテレビをぼんやりと眺める。
液晶にはアーセナルの試合がライブで映っている。
移籍の潮時かもしれない、とロシツキーは思う。このクラブで初めて試合に出たのは二十六の歳だ。
何百のハイレベルな試合、何十本の貴重なゴール、エミレーツに訪れた何百万人の観客。
何もかもが、まるではしけに打ち寄せる波のようにやって来ては去っていった。
俺はもう既に十分なだけの試合に出たじゃないか。
もちろん三十五になろうが四十になろうが他のクラブでなら幾らだって試合に出れるかもしれない。
でも、と彼は思う、ここでの試合だけは別なんだ。
……三十四歳、移籍するには若くない歳だ。
気の利いた人間ならスタメンで試合に出て腕にキャプテンマークでも巻いている歳だ。
ロシツキーはテレビのスイッチを切り、グラスに注いだミネラルウォーターを一息で半分ばかり飲む。
そして反射的に手の甲で口を拭う。
そして湿った手をジーンズの尻で拭った。
さあ考えろ、とロシツキーは自らに言いきかせる。
逃げてないで考えろよ、三十四歳……。少しは考えてもいい歳だ。
十七歳のカンテラ選手が二人寄った歳だぜ、お前にそれだけの値打ちがあるかい?
ないね、一人分だってない。チームメイトのフランス人の頭部に散りばめられた髪の毛ほどの値打もない。
……よせよ、他人のこと言えたもんかよ、くだらないメタフォルはもう沢山だ。何の役にも立たない。
考えろ、お前は何処かで間違ったんだ。思い出せよ。……わかるもんか。
好み
ファン・ペルシーがアーセナルを去ったのにはもちろん幾つかの理由があった。その幾つかの理由が複雑に絡み合ったままある温度に達した時、音を立ててヒューズが飛んだ。
そしてあるものは残り、あるものははじき飛ばされ、あるものは死んだ。
アーセナルをやめた理由は誰にも説明しなかった。きちんと説明するには五時間はかかるだろう。
それに、もし誰か一人に説明すれば他のみんなも聞きたがるかもしれない。
そのうちに世界中に向かって説明する羽目になるかもしれない、そう考えただけでファン・ペルシーは心の底からうんざりした。
「エミレーツの芝生の刈り方が気に入らなかったんだ。」
どうしても何かしらの説明を加えないわけにいかぬ折りにはそう言った。
実際にエミレーツの芝生を眺めに行った女の子までいた。それほど悪くはなかったわ、と彼女は言った。
少しばかり紙屑が散らかってはいたけど・・・・。好みの問題さ、とファン・ペルシーは答えた。
「お互い好きになれなかったんだ。俺のほうもアーセナルのほうもね。」
幾らか気分の良い時にはそうも言った。そしてそれだけの事を言ってしまうと後は黙り込んだ。
もう三年も前のことになる。
時の流れとともに全ては通り過ぎていった。それは殆ど信じ難いほどの速さだった。
そして一時期は彼の中に激しく息づいていた幾つかの感情も急激に色あせ、意味のない古い夢のようなものへとその形を変えていった。
メスト・エジルは終始明るく振舞ってはいたが、時折訪れる「間」は彼の寂寥を雄弁に物語っていた。
「結局誰も理解してはくれなかったんだ、誰もね。」
ギネスビールを一口飲む。そして続ける。
「でもいいんだ、サッカーはなにもサンチャゴ・ベルナベウでしかできないわけじゃない。エミレーツで行なわれるものもまた、サッカーだ。ブロードウェイ以外でもミュージカルは上演されているし、フランス語のオペラもある。同じことさ。」
ギネスビールはだいぶ時間が経ってぬるくなってはいたが、それでも彼はグラスを傾ける。
手のひらがグラスの表面についた水滴で濡れる。
そして、遠くを見ながら話の続きをする。
「今の生活には満足しているよ。給料はいいし、なにより理解がある。これが大事だ。」
ギネスビールを飲む。グラスの3分の1ほど残っていたのをぐいと飲み干す。
「ビッグイヤーには久しくお目にかかっていないけれど、理解ある仲間はビッグイヤーよりも得難い。そうだろ?」
ぼくはあいまいに頷く。彼も頷く。
何本かのギネスビール、そしていくつかの昔話を経てぼくらは別れた。
「ビッグイヤー」と発音するとき彼はいつも前置きとしてのギネスビールを飲んだ。
あるいは跳躍の前の助走のように。
メスト・エジルのなかに「ビッグイヤー」という裂け目があり、それを跳び越えるためにギネスビールを飲んだ。